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クラブ広報活動

我等の生業 NO9

   備前ロータリークラブ

            NO.9

            会員の仕事やそれへの想いのご紹介

 

私の職業

                              岡本 達也

 

私は、大学卒業後、母親が営んでいる「辻が花」に就職致しました。当時は、まだ景気が良く展示会をすれば売り上げが上がる時代でしたが、年々、来客数も減っていき、贅沢品は倹約する時代となりました。さらに、追い打ちをかけるように、大手呉服販売店の囲み商法の問題や大手卸売メーカーの倒産により呉服業界に対する金融機関の規制も厳しくなり、企業がふるいに掛けられる時期もありました。

毎年、消費者が生れてくるものは、何かないかと考えた結果、大学の卒業式が頭に浮かび卒業袴のレンタルを新規事業とし、取り組みを始めました。ただ、広告を打って店舗でレンタルをしても駄目だと思い、学校側とタイアップし大学内で受注会を行い、授業が空いている生徒様に展示会に来てもらえれば集客もできると考えました。まず、岡山で一番大きい「岡山大学」に入ろうと安易な考えで試みましたが、そう簡単に入らせてもらえる事は出来ませんでした。それから、一年半をかけようやく岡山大学袴レンタル指定業者に任命される事となりました。この時、初めてコネクションの重要性を知りました。

今では、IPU,就実大学、中国短大などで学内展示会を行い毎年400名の学生様に袴レンタルをご利用して頂いております。小売りをするにあたり必要なのは、時代とともに変わる消費者の考えをしっかりと把握し、その時代にあった商売をしていかなければならないと考えます。

まずは、岡山一の呉服屋を目指し、頑張って参りたいと思います。

 

医療と福祉          

                              阪本 文雄

 

 新聞社に勤めて45年を過ぎた。あっと言う間であり、いまだに、仕事に追われる日々。あたふたと時間が走るように行き、また次の朝が来る。出張などで帰ると、猫がどこへ行ってたのかという風にして寄ってくる。

 中学のころ、「夢」という題で作文を書く時間があり、小説家、政治家、と大きなことを書き、さすがに現実的になり途中から弁護士、新聞記者と書き進んだのを覚えている。大学で就職は新聞、放送と決め、同じ志望の友人と就活に取り組んだ。岡山へ帰ろうと決めていたら、山陽新聞から求人の掲示が張り出されており、受験した。大阪の関西テレビも受けることにしていたが、その前日、合格の通知が実家にあり、母親が「受けずにすぐ帰ってきなさい」と言われ、親心に従った。

 30歳の時、社会部は事件記者、そして労働、教育、医学担当と幅広い中で、医学担当記者に指名された。岡大医学部、川崎医大、国立病院、済生会病院、日赤病院などを回り記事を書き出した。最初、何を質問していいのかわからなかった。30分メモをとると頭が痛くなった。ちんぷんかんぷん、暗中模索、五里霧中。他紙の医学記事を読み、何が今、医学的に話題なのか、読者に役立つ新しい治療法は何か、どこに名医がいるのか、など走り続け、気が付いたら1年たっていた。結局医学担当記者を11年した。その間に国際障害者年があり、年間企画記事「明日の障害者福祉」を書き、新聞記者としての自分のテーマは医療と福祉になっていた。その後、高松、広島、備前、笠岡など転勤し、管理職にもなっていったが、お医者さんや病院、福祉施設との縁は切れず、今も記事を時々書かされる。夜の付き合いもドクター、施設長、理事長と言う肩書きの方々が多い。

 さて、この原稿のテーマは職業奉仕であり、ロータリアンのつとめを果たさなくてはならない。記事を書くことによって医療の光のあたらない人々や障害のある人達が、医療や福祉の恩恵をうけるようになればよい。そうは思っているが、おこがましいし、大げさになる。まぁ、病気になった時、介護や福祉のケアが必要な時、相談を受ければ、その病気ならこの病院のA先生とアドバイスすることを可能な限りするようにしている。私の職業を通して知りえた知識を活かせる奉仕活動だと自分に言い聞かせている。

 

無心につくる喜び

                              佐藤 苔助

 

父が商売のかたわら古陶磁の収集を趣味にしておりました。主に中国明時代、日本では桃山時代の作品を中心に集めておりました。私は幼少の頃から父の手伝いをしていた関係もあり、平素からそんな古陶磁に触れる機会に恵まれていました。中でも初期伊万里が好きで古伊万里の皿を自分でも集めました。

やがて、様々な焼物の中でも、古備前に心をひかれ、自分でも作ってみたいと思うようになりました。大学は父の商売を次ぐべく経済学部を出ましたが、陶芸の道に入ったのです。

陶芸は誰に教えてもらうわけでもなく、永い間、独学で作ってみたり、工夫を重ねたりで、そのおりおりに納得のいくものを創作してきました。平成五年から京都の人間国宝「清水卯一」先生に師事し、備前焼に少しでも何か新しい作品が生まれるかと指導を受けてきました。

備前焼はそのまま置いても土味に心ひかれますし、花を入れれば花を引き立たせ、食器に使えば料理を引き立たせ、徳利に酒を入れても味に深みが増します。

無心に作るなかで炎の力でまさに天佑というか何かに助けられ作品が生まれるような気がいたします。今は無心につくることがなにより喜びなのです。

 

材木屋として思うこと

                              清水 猛

 

昭和30年3月に浦伊部で、開業をしました。昭和45年3月に伊部1283-1に移転し、現在に至っております。

開業した頃に赤穂線が、日生より西大寺に向けて開通の工事をする時で、トンネルを掘る時に使われる松丸太を主力とする資材を納品させてもらい随分儲けさせてもらいました。続いて2号線の市内のトンネルでも同じ様に関係させてもらいました。

昭和の良き時代の住宅建築は、在来工法がほとんどで、木材の使用量も多く、内装材では木味(キアジ)、木目、色目とか高価な品がよく使われ、利益率も売上も良かった。

当時は、材木店が備前・和気地区で19店もありましたが、新築家屋も多く仕事も随分忙しかったです。現在6店になっておりますが、仕事もあまり忙しくもないし、利益率も悪くあまり面白い商売ではなくなっております。木材市場で古い人と話す時は、昔は良かったなあの会話です。

百年家屋と言う時代は、太い材木と漆喰壁で、頑丈な長持ちする家が普通でしたが、昨今は、20~25年もてば良いという考えになってきているようです。断熱構造、省エネルギー構造で作られる家は、日本風土にはどうしても無理が出てくるようで、新しく開発される材料は、20~30年もするとボロが出てきているようです。でも、商売ですから需要があれば追っていかなければ・・・・

バイオマス(生物資源)発電が昨今色々と話題になっております。特に大型の工場を海辺エリアに作る話が出てきておりますが、反対です。燃料にパームヤシ殻や低価格のパームヤシ空果房(EFB)やゴムの木の廃材を船で運んで来てこれを主力にして近辺の建築廃材や間伐材を火力にする計画だそうですが、遠くから運んで来て何十年も続くのだろうか疑問です。

バイオマス発電の基本計画は、化石燃料を使わない事と、間伐材や小径木曲がり材が山林で捨てられていたのを利用して、山林の活性化をするのが主目的で、二酸化炭素ガスをださないという事が目的だったはずです。

バイオマス発電所を近くに複数作る事は、原材料の供給に無理が出てくる事である。半径を車社会で1時間~2時間位の工場範囲でなければ原材料の仕入が続かず1㎥単位の価格が高くなり、行く先々において燃料が不足して建築用材になる高い価値のある物のチップに使わなくては、ならなくなって来るようになるのでは?

現在真庭市で稼働しているバイオマス発電工場でも製材所からの廃材と地域から出る間伐材で賄っておりますが、3~4年先にはチップを他県より仕入れしないと無理とささやかれているようです。

これらの多くの方々のご支援に答えながら、できるだけ永く仕事を続けることできるよう、地道に真面目に頑張ろうと思っております。よろしくお願いします。


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